299日目。明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。うっかりすっかりブログ更新をサボってしまっておりましたが、みなさまにはお変わりございませんでしょうか? 年越しはいかがされていましたか? ボクは、大掃除をすることもなく、初詣の準備をするでもなく、ただ紅白をボーッと観ながら、年末セールで買ったウィスキーをちびちび舐め、スーパーで買った蕎麦をすすっておりましたところ、つるりと年が明けておりました。年々、一年と一年の境がぼんやりになっていくのは、老化のせいでしょうか? 生来がぼんやりだからでしょうか? 「貸借も なくてめでたし 大三十日(おおみそか)」と詠んだのは村上鬼城ですが、まあ、大病を患うわけでも、借金を抱えるわけでもなく、無事年を越せたのですから、良い一年だったと言って良いでしょう。よくやった、俺。上出来、上出来!(←自分に甘い)
酔っ払おうぜ!
吐き出すように想いを注いでやるよ
今年はハードな一年だったな
より良き来年に乾杯!
乗り越えてきたことのすべてが
これからもうまくやっていける証だよ
お前だけが俺の気持ちを分かってくれる
お前にはなんだって言えるんだ
お前はジャッジしたりしない
ただ黙って俺の話を聞いてくれる
お前に出会えたのは最高の出来事だ
お前と俺ならなんだってできるさ
一歩ずつ行こう お前と俺で
太陽みたいに光を差し込んでくれ
一歩ずつ行こう お前と俺で
カサつきながらも暖かみのある、冬の陽光のような歌声。一聴してイギリス出身だと分かる癖のあるアクセント。シンプルながらも耳に影を残すようなメロディーライン。そして前向きでストレートなリリック。昨年ボクが新しく知り得たミュージシャンの中で、一番胸を鷲掴まれた、トム・ウォーカー(Tom Walker)の『Just You and I』という曲です。
トム君は、イギリス・マンチェスター出身の若干26歳。2016年にデビューし、今日までにシングル7枚とミニアルバム1枚をリリースしている新人さんです。が、批評家の評価は高く、昨年6月には有望な新人に贈られるBBC Radio1の『Brit List』にリストアップされ、9月からは初のUSツアーを敢行。10月にドロップした新曲『Leave a Light On』は、エド・シーラン(Ed Sheeran)やクリーン・バンディット(Clean Bandit)などを手がけたプロデューサー、スティーブ・マック(Steve Mac)がアサインされています。初のオフィシャルPVも完成したようなので、貼り付けておきましょう。
トム君は、同じイギリスのシンガーソングライター、サム・スミス(Sam Smith)とほぼ同い年ですが、高音のファルセットで洗練かつ繊細なイメージのサム君に比べ、野太いしゃがれ声で、熱く、でもどこか暗さのあるトム君。UKの先輩なら、デヴィッド・グレイ(David Gray)やパオロ・ヌティーニ(Paolo Nutini)の系譜でしょうか。いずれにせよ、数年前のサム君のように、今年大化けする予感でいっぱいのニューカマーです。
前述の『Just You and I』の歌詞は、おそらくラブソングなのでしょうが、ボクのイメージでは、大晦日に片田舎のパブで、相棒と肩を組みながら、ギネスのパイントを一気飲みする、貧しくも幸せなブルーカラーの若者たちが浮かびます。「お前に会えて本当に良かった」なんていう、こっぱずかしい台詞を、酔った勢いと店の喧騒に乗せて大声で叫び飛ばすような、陽気でハイテンションで、でもどこかセンチメンタリズムが紛れ込んでいる大晦日の夜。カウントダウンを合図に窓に映る打ち上げ花火に気勢を上げ、また明日から問題山積みの日常へと戻っていく。そんな、言葉にすると遠ざかってしまう情景や感情を、トム君の声は短く鮮やかに切り取って見せてくれているような気がするのです。
私事ですが、昨年は引越しを試みたり、新しいことに挑戦する機会に恵まれたりと、慌ただしくも充実した一年を送ることができました。さてはて、今年は一体どんなことがあるのでしょう。いずれにせよ、目の前に現れることをひとつひとつ片付けながら、今年の大晦日には、酒場で仲間たちと「上出来、上出来!」と肩を叩き合えるような、そんな一年にしたいと思っています。(←今年も甘い)
よく光る 高嶺の星や 寒の入り(村上鬼城)
298日目。最近「不倫」が大ブームです。好感度の高いタレントも、クリーンなイメージの政治家も、年俸数億のスポーツ選手も、不倫が見つかってしまえば、もれなく「ゲス」のレッテルを貼られて、ワイドショーで吊るし上げです。怖い世の中ですな。いい歳こいたチョンガーの世迷い言だと思って聞き流してほしいのですが、「不倫」って、そもそも言葉が良くないと思うんです。「倫理にあらず」という、ちょっと道徳チックなこの表現が、世間のバッシングを強めにしている感じがします。例えば「不倫」の代わりに、三島由紀夫風に「よろめき」とかにしてみれば、もう少しマイルドな対応になるんじゃないでしょうか? 「ケンさんがよろめいた!」「ユキちゃんのよろめき会見!」みたいな。ね? ってダメか。
古今東西、不倫をテーマにした作品は星の数ほどございます。文学でいえば、いまだに長編小説の最高峰と呼ばれるトルストイの1877年作『アンナ・カレーニナ』と、1992年に世界的ベストセラーになった『マディソン郡の橋』は、どちらも家庭を持つ女性が、別の男性に「よろめいて」しまう物語。双方とも悲恋の結末ですが、恋に身をやつす女性の歓喜と逡巡は、時代を超えて普遍的なものなのだと教えてくれます。
楽曲でいうと、一番先に思いつくのは、ホイットニー・ヒューストンの85年のシングル『Saving All My Love for You』。この曲はもともとマリリン・マックー&ビリー・デイヴィス・ジュニアという夫婦デュオの78年のヒット曲で、ホイットニーのバージョンはカバーになります。妻子ある男性と恋に落ちてしまった主人公が、未来はないと知りつつも、逢瀬を待ちわびてしまう心情を、デビュー直後の圧倒的な歌唱力でホイットニーが歌い上げた名曲です。
個人的に好きなのは、Heartの90年のヒット曲『All I Wanna Do Is Make Love to You』。「私はあなたとエッチしたかっただけ」という大胆なタイトルながら、一晩だけの情事に見せかけて、実はある覚悟を秘めていた人妻の思惑が、最後の最後に明らかになるというストーリー仕立てのリリックが面白いし、何よりもいろんな意味でパンチの効いた、アン・ウィルソンの歌声が大好きでした。
宇多田ヒカルちゃんの2004年の楽曲『誰かの願いが叶うころ』は、「幸せって、誰かの不幸の上に成り立ってるよね?」という、薄々気づいていたけど誰も口に出さなかったようなことを、当時二十歳そこそこの女の子が、しれっと歌にしてしまった問題作ですが、細かい部分を見ると、「冷たい指輪が私に光ってみせた」「あなたは私を引きとめない/いつだってそう」などのディテールが、主人公の「道ならぬ恋」を匂わせているし、「みんなの願いは同時には叶わない」というフレーズは、「不倫」そのものの真理のようにも思えるのです。
男性が歌った不倫をテーマにした楽曲も探してみたのですが、あまりピンとくるものが見つかりませんでした。なんとなくですが、「浮気」は男性名詞で、「不倫」は女性名詞のような気がします。いずれにせよ、誰かと出会い、思いがけず「よろめいて」しまうことは、いつ誰に起きても不思議ではないことのはず。「アタシは大丈夫」などと息巻いている人ほど危ういのも、世の常でございます。せめて、自分に害の及ばない他人の「よろめき」には、もう少し寛容になってあげてもいいのでは?と言うのは、いい歳こいたチョンガーの世迷い言なので聞き流してください。
297日目。突然ですが、アメリカ人には「肩こり」がないってご存知です? 英語で「肩こり」を指す単語がなく、「肩こり」の認識がないので、「肩こり」自体が存在しないのだそう。彼らに日本語の「肩こり」という言葉と、それが意味する肩の痛みを教えると、途端に「肩こり」になってしまうのだとか。ふーん。どこまで本当かはわかりませんが、こういう「言語」と「認識」の相対関係を、学術的には「サピア=ウォーフの仮説」と呼ぶのだそうです。日常使っている言語(ボクにとっての日本語)は、コミュニケーションツールというだけでなく、存在認識や価値観、もしくは物の見え方や思考までも、形成しているのだという「仮説」です。「アメリカンジョークって全然笑えねぇ!」って思うのは、言葉や文化の壁以前に、英語を日常言語としている人たちとは、見えているものや感じているものが、そもそも全く違うのかも知れません。そう考えると、腑に落ちることもたくさんあると同時に、少し空恐ろしい気持ちにもなります。
閑話休題。先日『メッセージ』という映画を鑑賞してきました。突如地球の各所に現れた複数の宇宙船。各国がそれぞれのアプローチで、宇宙船とのコンタクトを図る中、主人公であるアメリカの言語学者は、宇宙船内部に潜入し、UMAとのコミュニケーションを試みます。やがて、政治的な圧力や軋轢に翻弄されながらも、主人公は宇宙人と心を通わせ合うようになり……。SF映画の名作として名高い『コンタクト』や『インターステラー』などとも比肩する、上質かつ重厚なヒューマンドラマで、「宇宙人がタコ足(しかも墨を吹く)」という超昭和な容姿が全く気にならないほど、誘引力のあるストーリーでした。
この映画でも、前述の「サピア=ウォーフの仮説」が取り上げられていて、主人公は宇宙人の言語を理解していくにつれ、ある「変化」を体験します。アメリカ人が「肩こり」を知るように、未知の言語を習得することで、今まで認識できなかったものを知覚するようになるのです。この映画を「SF」たらしめているのは、UMAの存在よりも、その「知覚」へのサイエンスであり、観客を「あなたならどうする?」という深遠なクエスチョンの淵に放り込むフィクション力なのです。
音楽担当はアイスランドの鬼才「ヨハン・ヨハンソン」。かつてはエレクトロニカをベースにした実験的な音楽が印象的でしたが、昨年、6年ぶりにリリースしたアルバム『オルフェ(Orphée)』では、弦楽四重奏やオーケストラをメインに、よりポスト・クラシカルな作品を発表。『メッセージ』では、硬質かつスタイリッシュな映像と、神々しささえ感じるヨハンさんの音楽が、見事にマッチしていて感動的でした。映画とは離れますが、『オルフェ』収録の楽曲『Flight From The City』の、ほんの数分かつたった二人のダンスで、人生の全てを描き切ったようなPVを貼っておきます。
エスキモーは「雪の色」を表す400種類の言葉を持ち、ブラジル先住民のピダハン族は「数」を表す言葉を持たないのだそう。「サピア=ウォーフの仮説」はあくまで「仮説」ですが、降る雪の中にいくつもの異なる「白」を認める人たちや、「数」に囚われずに人生を送っている人たちが、この世のどこかにいるのだと思うと、満天の星空を見上げる心地にも似た、なんともロマンチックな気分になります。ちなみに、言語の時制に未来形(will)を持たない日本人は、「未来」のことを「現在」のことのように話すので、未来と現実を混合しがちなのだとか。だから、将来のための「貯金」が得意なんですって。あらまあ、日本人って。
296日目。四十路も後半になると、どうも手元にピンが合わなくなったり、あるはずのない場所に長い白髪を発見したり、走れば間に合う電車をすぐあきらめたりと、「俺って年食ったなぁ!」と思うことが日々多々あります。仕事帰りの電車の中、目の前のシルバーシートがぽっかり空いていたりすると、昔なら絶対座らなかったのに、吸い込まれるように腰を下ろして、ため息ひとつ。そういえば向田邦子氏のエッセイに、「あ、いま老けた」と思う瞬間がある、という一文がございました。
“一日の仕事を終えて、深夜テレビを見ている時、気がつくと、じゅうたんにペタンと坐り、背中を丸め、あごを前に出して、老婆の姿勢をしているのです。「あ、いま老けた……」と思います。”(「若々しい女について」より抜粋)
昔読んだ時にはよく分かりませんでしたが、今なら沁み入るほど理解できます。夜の地下鉄のシルバーシートに座って、深いため息をつくたびに、ボクは確実に「老けて」いるのだと思います。
自分の「老い」を感じるようになって、最近よく考えるのが、「若さ」とは一体なんだろうということ。お肌がピチピチしていること? 体力や精力がムンムンしていること? 将来の夢や希望を語れること?
例えばボクが、アンチエイジングにお金をかけてお肌がツルツルになっても、20代に負けないように週3ジム通いで体力作りに励んでも、事業での一攫千金を熱く夢見ても、それはイコール「若さ」にはならないでしょう。一方で、20代なのにやたら老け込んでいる人もいるし、還暦過ぎてまだまだ若々しい方もいる。じゃあ「若さ」って?
昨日リリースされた「竹原ピストル」の9枚目のアルバム『PEACE OUT』に収録され、テレビ東京のドラマ『バイプレーヤーズ』の主題歌にもなった『Forever Young』。この歌に関するエピソードとして、ピストル君がインタビューでこんなことを語っていました。
“去年末に40歳になったんですけど、そのとき「若くあろうとするな、老けるぞ!」って思ったんです。例えば、「何年前ならこういう歌い方ができたのに」とか「あの頃の情熱をもう一度」みたいに過去の自分を引き合いに出しちゃうと、どうしてもしんどくなるし、歌が錆びていくような気がしたんです。だったら、今迎えてる時間の中で新しいもの……満ち満ちた若葉を芽吹かせたほうが絶対いいと思ったんで。あの頃のようにっていうのは不可能だし、何も生まれない気がして。若さに執着しないことが若さなんじゃないかなって思うんです。”(ナタリー音楽「竹原ピストル 不惑にして“惑えず” 歌うたいの覚悟」)
「若さに執着しないことが若さ」。さすがピストル君。100%アグリーです。美人さんは、自分が美人だと気づいていないうちが一番キレイっていう話とちょっと似てますが(そうか?)、本当の若さを持つ人は「若さ」を追い求めたりしないし、そもそも年齢なんて気にしないでしょう。それこそがきっと「若さ」を保つ秘訣なのです。
古今東西「若さ」を信奉するのは人の常だし、ある意味人間の本能のようなものだとも思います。でも、それを追い求めるがゆえに、今の自分を見失ってしまうのは、もったいないことかもしれません。今日の自分は、若かった時代を経た集大成であり、これから先の人生で、一番「若い」自分のはずなのです。
あの頃の君にあって
今の君にないものなんてないさ
冒頭の向田邦子氏のエッセイでは、こんなことも綴られています。
“先のことをくよくよしたところで、なるようにしかならないのです。餓死した死骸はころがっていないのですから、みんな何とか生きてゆけるのです。そう考える度胸。これも若々しくあるために必要なのではないでしょうか。”
アンチエイジングもジム通いも、楽しんでやるならばもちろん結構。ボトックスもヒアルロン酸も、自分が良ければ上等です。でも、今のボクに必要なのは、今この時の自分にできる最良はなにかと自分に問うこと、そしてどんなに疲れていてもシルバーシートには絶対に座らないという矜持なのかもしれません。
295日目。すっかり遅くなりましたが、みなさま、新年明けましておめでとうございます。年末年始はいかがお過ごしでしたでしょうか。ボクは今年の正月休みはどこにも行かず、ケーブルテレビで録画しておいた『「北の国から」シリーズ イッキ見!放送』を延々と鑑賞しておりました。『北の国から』がスタートしたのは1981年。ボクは当時12歳で、「純くん」にズブズブ感情移入しておりましたが、この歳(47)で改めて見直すと、目線はすっかり「五郎さん」なのです。この名作ドラマは「純くん」と「螢ちゃん」の成長物語でありながら、同時に「東京に馴染めず、結婚にも失敗した中年男が、故郷でゼロから人生をやり直す」という再起の物語でもあります。テレビシリーズ開始時の五郎さんの年齢設定は45歳。あばら屋を修繕し、電気や水道を自力で引き、ドカチンしながら2人の子供と格闘する五郎さんの姿は、ボクの冷え切ったハートに、かすかな種火を灯してくれます。今からでもまだ何かできるのではないか? いや「やるなら今しかねえ!」なのではないか? そんなことを自問した2017年正月でした。
『北の国から』をきっかけに、ボクはすっかり「倉本聰」氏のファンになってしまい、中学生時代には、彼が脚本を手掛けた作品を片っ端から観たり読んだり(当時脚本の書籍化が流行っていた)しました。『前略おふくろ様』『6羽のかもめ』『さよならお竜さん』『時計 Adieu l’Hiver』『昨日、悲別で』。どの作品も、間違い、悩み、屈託し、でも、情を忘れず、矜持を捨てず、ひたむきに生きる若者を主人公としたストーリーで、思春期入りたてでまだグニャグニャだったボクの自意識に、小さな道標を立ててくれました。
その中でも特にボクが好きだったのが『君は海を見たか』。1970年に倉本氏がテレビドラマ脚本として書き上げ、71年に映画化。その後82年にリメイク版として、『北の国から』と同じスタッフで、再度テレビドラマ化されました。
ストーリーは、仕事一筋で家庭を顧みなかった父親が、息子の余命が3ヶ月と告げられ、なんとか親子のふれあいを取り戻そうとするドメスティックドラマ。ボクが観ていたリメイク版では、父親を萩原健一、母親代わりの叔母を伊藤蘭、息子を『北の国から '84夏』にも出演していた六浦誠が演じていました。
冷え切っていた父子が徐々に関係を修復していくという展開は『北の国から』も同じですが、『君は海を見たか』のほうが都会的かつ現代的で、中学生だったボクには父子のスタンスや会話がより「リアル」に感じられました。特に、かまって欲しいがゆえに他愛のない嘘をつきまくる息子のワガママっぷりは、イライラしながらも歯がゆい共感を持って観ていた覚えがあります。
ドラマの中盤、その虚言癖息子が病室で「自分で作った」と嘯いて暗唱するのが、谷川俊太郎氏の『生きる』。1971年に発表されたこの韻文詩を、ボクはこのドラマで初めて知りました。
生きているということ
今生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみをすること
あなたと手をつなぐこと
大げさでなく「詩」で心が動いたのは、この『生きる』が初めてでした。すぐに谷川氏の詩集を買い、虚言癖息子と同様に暗唱できるくらい、何度もこの詩を読みました。そうです。ナイーブさを拗らせた、ちょっと変わった中学生だったのです。
生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと
10年ほど前に、今回紹介する『生きる わたしたちの思い』を偶然本屋で見つけました。当時スタートしたばかりだった「mixi」のコミュニティから派生したこの本は、谷川俊太郎の『生きる』という詩に、自分たちの言葉を添えていくという趣旨で、約100人の言葉が掲載されています。詩人ではない市井の人々が持ち寄った「言葉」は、それでも集めると一つの大きな「詩」になっていて不思議です。そして今の自分なら、もしくはあのナイーブさを拗らせていた中学生の自分だったら、どんな言葉を寄せたのだろうと考えるのです。
生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
ということで、新年早々『北の国から』→『倉本聰』→『君は海を見たか』→『生きる』→『谷川俊太郎』という連想ゲームを一人楽しんでおりました。きっとこの調子でぼんやりしていると、今年もあっという間に過ぎていってしまいそうです。とりあえず五郎さんのあの情熱と行動力を見習って、ボクが己に寄せるべき今年の言葉はこうなります。
生きているということ
やるなら今しかねえということ
294日目。20年以上前に亡くなった母方の伯母は終戦の日、玉音放送を聞いて他の家族が安堵の溜息を落とすなか、「なんで負けなのよ!もっと戦えるわ!」と悔し涙を流したのだそう。後年、母がそのことで伯母をからかうと、「アレは嘘よ。嬉し泣きだったのよ」などと嘯いておりましたが、まだ子供だった甥のボクから見ても一本気かつ情熱的だった彼女のこと、きっとモンペ姿のおさげ髪を激しく揺らしながら、おいおいと泣き叫んだ姿が容易に想像できます。日本が勝つと信じて、正に「耐え難きを耐え忍び難きを忍んで」きただろう伯母(を含んだ多くの日本人)にとって、負けを認めることは、それまでの苦労を水泡に帰することと同意だったはず。「終わって良かった」と安堵するよりも先に、「ふざけんな!勝手に終わらせてんじゃねえよ!」と憤るほうが、感情の流れとして納得できるような気がします。
週末、いま話題の映画『この世界の片隅に』を鑑賞してきました。原爆投下後の広島を描いた『夕凪の街 桜の国』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞を受賞した「こうの史代」氏が、2007年から2年に渡り連載していた同名漫画が原作。映画は、一部描かれていない要素はあるものの、ほぼ原作に忠実に作られています。むしろ漫画と全く同じアングルで描かれている印象的なシーンが多く、「片渕須直」監督の「原作リスペクト」がジンジンと伝わります。
物語は昭和9年から21年までの広島県呉市を舞台に、主人公である少女を通して、反戦でも懐古趣味でもないフラットな目線で、当時の市井の人々の生活を描いています。クラウドファンディングで集められた限りある予算の中で、CGは一切使わず、敵戦闘機の動きは切り紙アニメ(各部分を少しずつ動かしながら一コマずつ撮影する)の技術を使って撮影したという執念の絵作りは、驚くほど生命力に溢れていて、観客にアニメーションを見ていることを失念させてしまうほどのリアリティがあります。
音楽を担当したのは255日目にも紹介した、現「KIRINJI」のメンバーでもある「コトリンゴ」。主題歌は、ザ・フォーク・クルセダーズの1968年の楽曲『悲しくてやりきれない』のカバーです。
有名な曲なので多くの方がカバーされていますが、ボク的にこの歌のオリジナルは「おおたか静流」のこのバージョン。「コトリンゴ」もそうですが、少し浮世離れしたボーカルが、この歌の持つ「絶望」を和らげてくれるのです。
昨今のアーティストの中で、歌のウマさでは「七尾旅人」と双璧をなす(と勝手にボクが思っている)「奇妙礼太郎」のカバーも素敵です。『ちいさい秋みつけた』などで知られるサトウハチローが書き下ろしたこの歌詞の「やりきれなさ」と、見事にマッチした歌声です。
ネタバレになりますが、映画の終盤で、玉音放送を聞いた主人公の「すず」さんが、「暴力で従えとったということか!じゃけえ暴力に屈するいう事かね!それがこの国の正体かね!」と泣き叫ぶシーンがあり、久しぶりに冒頭の伯母を思い出したのです。敗戦という事実に「すず」さんがみせた拒絶反応は、軍国主義に洗脳されていたわけではもちろんなく、戦争という「暴力」に白旗を上げることへの抵抗です。彼女にとって戦争とは、生活を脅かす「テロリズム」あり、家族を奪い、故郷をめちゃくちゃにしたそのテロに屈しることに、激しく涙したのです。そしてその涙は、ボクの大好きだったあの伯母が、同じ日に流した、同じ涙のはずなのです。
293日目。「性善説」「性悪説」という言葉があります。「人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ!」と説いた孟子さんと、「人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ!」と説いた荀子さん。結局両者とも「だから努力して良い人間になりなさい!」という教えなので、どちらが良い悪いの問題ではないのですが、個人的にボク自身は「性悪派」の人間ではないかと思うのです。ワガママだし、利己的だし、甘ったれだし、努力が嫌いで、ええかっこしいで、見栄っ張り。なんの縛りのない場所に生まれていたら、超自分勝手に生きてしまいそうだし、ルールや法律や人の目があるからこそ、ブーブー文句を垂れながらも、どうにか人並みに自分を律せられているタイプなのです。ダメダメ47歳。
先週末から公開中の映画『永い言い訳』。監督は229日目に紹介した、ボクの敬愛する作家兼ディレクターの西川美和氏。そして主人公(モッくん)の相手役には、ボクの寵愛する天才ドサ回リスト・竹原ピストル君。個人的にはこれ以上にアガる「タッグマッチ」はないので、映画鑑賞はもちろんのこと、公開記念のトークショーやら舞台挨拶やらまでハシゴして観てまいりました。
『永い言い訳』は西川氏が昨年2月に上梓し、第153回直木賞候補作になった小説が原作。雪山でのスキーバス滑落事故で、同時に妻を失った、都心に住む売れっ子作家と、埼玉郊外の団地に暮らすトラック運転手。「妻同士が親友」という以外は何も接点がなかった二人が、事故をきっかけに風変わりな交流を持つようになります。
主人公の作家「幸夫」は、自分勝手で見栄っ張りで、長年支えてくれた妻への感謝の気持ちすら拗らせている男です。そんな自分に嫌気がさしながら何もできず、外面(そとづら)は良いくせに、身内には食えない毒を吐くダメ男。ボクにそっくり。
逆にトラック運転手の「陽一」は、純粋で真っ直ぐ。家族を愛し、人を疑わず、真面目で強く優しい男です。ただその純粋さは、時に愚鈍さにも映り、人を苛立たせたり失望させたりもします。その反発を受け流す余裕やしなやかさはなく、自分で自分を傷つけてしまうのです。
どちらがどっちと決めつけるのもなんですが、強いて言えば「幸夫」は「性悪派」で、「陽一」は「性善派」。「陽一」の単純さを内心小馬鹿にしながらも、そのシンプルさに憧れを抱く「幸夫」と、「幸夫」のように器用に生きられず、二進も三進もいかない生活に屈託していく「陽一」。「妻を亡くす」という同じ体験をしながら、全く違うアプローチで悲しみと向き合う二人は、それぞれがお互いの「向き合い方」に感化されながら、一年という月日を掛けて、少しずつ、もう十分な大人なのに、少しずつ成長していくのです。
つくづく思うよ。他者の無いところに人生なんて存在しないんだって。人生は、他者だ。(小説本文より抜粋)
公開日のトークショーや舞台挨拶で、監督の西川氏が「幸夫は、今まで描いた人物の中で一番自分に近い」と語れば、幸夫役のモッくんも「自分にそっくりな役」と言い、陽一役だったピストル君さえも「実は僕も幸夫的な男」と話しておりました。人は誰も自分のことを、面倒くさくて自分勝手な人間だと思いがちなのでしょう。その面倒くさくて自分勝手な自分をどうにかしたいと、ジタバタする衝動こそが、実は人間にとっての「性善」なのかも知れません。
292日目。先週、稀代の天才・宇多田ヒカルちゃんが6枚目のアルバム『Fantôme』をドロップされました。前作『Heart Station』から約8年。年齢で言えば25歳から33歳までの「女盛り」に、経験し、吸収し、咀嚼し、発酵させたインプットの集大成。お母様へのレクイエムあり、男女のすれ違いあり、同性への秘めた恋あり、主婦の危険なエスケイプありの、枠に捉われないバラエティに富んだ風景を、印象派を思わせる斬新なアングルで描いた11曲。レコーディングには、アデルやサム・スミス、エイミー・ワインハウスらを手がけたエンジニアたちを起用しているのだとか。良い意味でクセのあるリリックと、唯一無二の歌声を持つという点では、確かにアデル、サム、エイミー&ヒカルちゃんのコモンセンスは近いのかもしれません。
個人的には、お母様に宛てたのであろう1曲目の『道』が大好きです。「歌手」という同じ職業を選んだ母娘だからこそ、分かり合える道。「淋しい道だけど、(あなたも歩いた道だから)孤独ではない」と繰り返すリフレインは、高みに吹く一陣の風を望むような、清々しさをもたらしてくれます。「そんな気分」という最後のフレーズは、「もう大丈夫」というヒカルちゃんなりのメッセージと同義なのでしょう。その「再生」の決意に、リスナーの胸は熱くなるのです。
親から受けた影響や感謝を題材にした楽曲は、古今東西、星の数ほどございます。有名なところで言えば、ビートルズの『Julia』や、グレープの『無縁坂』、このブログで言うなら、5日目の松任谷由実の『Forgiveness』や、220日目の長渕剛の『Mother』も、そのジャンルに入ります。今日はその数多な楽曲の中から、ボクがグッとくるペアレントソングをご紹介します。
イギリスのシンガーソングライター、Laura Mvula(ローラ・マヴーラ)の2013年のアルバム『Sing To The Moon』に収録された『Father, Father』は、疎遠になってしまった実の父親に対する思慕をテーマにした楽曲です。ゴスペルのような荘厳さで「私を離さないで!お父さんを愛したいの!」と繰り返すその渇望は、親を求める幼子の泣き声のようで、胸を掴まれます。
33日目にも89日目にも153日目にもご紹介しているタテタカコの、2010年のアルバム『Harkitek or ta ayoro』に収録された『帰路(かえりみち)』という楽曲です。テーマがご両親かどうかは不明ですが、「幸せは比べたら見えないよ」というフレーズは、ヒカルちゃんの『道』の歌詞にある「目に見えるものだけを信じてはいけないよ」の一節にも似ていて、親から授かった大切な教えを、そっと歌に紛れ込ませているような気がします。「大人になった僕に手を振る」誰かに見守られ、いずれにせよ、この歌の主人公も一人で「道」を歩いていて、けれど「孤独」ではないのです。
すしくわせろ
にくくわせろ
ただいまおかあさん
あたらしいぱんつだせ
あたらしいくつしただせ
ただいまおかあさん
なつなのにながそでだ
ふゆなのにはんそでだ
ひげをそれとおかあさん
かみをきれとおかあさん
ただいまおかあさん
いいかげんおとなになれとおかあさん
ひさしぶりにすもうをとろうとおかあさん
ただいまおかあさん
はるなのにしょんぼりだ
あきなのににこにこだ
警察署からの帰り道のこと覚えてる?
お父さんには内緒にしようって言ったの覚えてる?
二人だけの秘密にしようって言ったの覚えてる?
カステラ買って食べたの覚えてる?
銀歯が取れたの覚えてる?
このブログでは何度も紹介している、ボクの敬愛する竹原ピストルの2010年のアルバム『BOY』に収録された『帰郷』。「帰郷」というタイトルの持つ成人な印象と、この甘えたな歌詞のギャップにヤられます。以前、倉本聰氏のシナリオ(たぶん『ライスカレー』)で、「マザコンじゃない男の人なんて信じられない」というような台詞がありましたが、ボクも同意です。母親から受けた影響やもらった人格が、「コンプレックス」になっていない男(もちろん女性も)なんて、いないのです。
でも“お母さん”って最もポップな題材じゃないですか。多分ほとんどの人にとっても、母親か、もしくはそれに当たる存在がいるわけで、そこから自分の核なる部分や、自分だけの世界を形成していくわけでしょ? それってめちゃくちゃポップなことだと思うんですよ。
(『Real Sound』宇多田ヒカルインタビューより抜粋)
「ポップ」な存在を失い、自らが「ポップ」になっていく。波のように繰り返されるそのリフレインに身を任せることが、「生かされている」という意味そのものなのかも知れません。そんな気分。
291日目。「ハチくんのこと……好きって言ったら……困る?」ブーッ!(←鼻血) ただいま公開中の映画『青空エール』が悶絶するほど気になるのですが、47歳のチョンガーが一人で観に行ったら周りにご迷惑を掛けてしまいそうなので、グッと我慢してYouTubeで予告編をリピートしている2016年の夏の終わり。皆様はいかがお過ごしでしょうか? 10代の頃の恋なんて、すでに幼少期の記憶を辿るのと同じくくらい深い靄の中に霞んでいるのですが、「他人を好きになる」という生まれて初めての感情に、戸惑い、持て余し、上手く処理できずに身悶えてばかりの、甘酸っぱいというよりは苦み走った思い出が、ぼんやり見え隠れしております。そしてそれは、10代に限った話ではなく、大人になっても(もしかすると大人になればなるほど)、さらに持て余し右往左往させられる感情だったりもします。この小説を読むと、そんなことを考えさせられます。
平野啓一郎著『マチネの終わりに』は、2015年3月から今年1月にかけて毎日新聞で連載されていた恋愛小説で、4月に単行本として刊行されました。ボクは遅ればせながら、今夏じっくりと拝読させていただいたのですが、なんというか、すっかりヤられてしまいました。だってもうスゴイんだもん。
主人公は38歳の男性天才ギタリストと、40歳の海外通信社に勤める女性ジャーナリスト。知人の紹介で知り合った二人は急速に惹かれあい、恋愛に発展していきますが、女性にはフィアンセがおり、男性は仕事の壁にぶつかり、二人の恋はあと一歩というところでなかなか成就できません。やがて、距離や、時のいたずらや、周りの人間の作為によって、二人の関係は引き離され、別々の人生を歩むことに。仕事、結婚、家族、スランプ、PTSD、人種、嫉妬、芸術……。10代の恋とは違い、絡み合う様々な「大人の事情」を束ねながら、物語は6年の月日を経て、見事な大円団に向かいます。
あらすじだけ書くと、よくある焦らし系の恋愛小説のようですが、物語の背景には、バクダット自爆テロ、サブプライムローン破綻、東日本大震災といった社会情勢や、映画『ヴェニスに死す』やダンテの『神曲』、バッハの『チェロ無伴奏』といった古典芸術への考察があり、それらを通じながら、なぜお互いが惹かれ合うようになったのかが、複合的なアプローチで描かれています。「アダルトな恋愛小説」なんていうと、過激な性描写なんかを想像(期待?)してしまいますが、この小説にはそういう要素は一切なく、知的かつ詩的という意味で、とてもアダルトです。
平野啓一郎氏の作品では以前、斬新な「蘇り」を題材にした『空白を満たしなさい』を拝読しましたが、あの小説の裏テーマだった「分人」という考え方が、この『マチネの終わりに』にも通奏低音のように流れています。人は、向かい合う相手によって変わり、誰かを好きだと思うのは、その人といる時の自分自身が好きだからこそなのです。
なるほど、恋の効能は、人を謙虚にさせることだった。年齢とともに人が恋愛から遠ざかってしまうのは、愛したいという情熱の枯渇より、愛されるために自分に何が欠けているのかという、十代の頃ならば誰もが知っているあの澄んだ自意識の煩悶を鈍化させてしまうからである。
美しくないから、快活でないから、自分は愛されないのだという孤独を、仕事や趣味といった取柄は、そんなことはないと簡単に慰めてしまう。そうして人は、ただ、あの人に愛されるために美しくありたい、快活でありたいと切々と夢見ることを忘れてしまう。しかし、あの人に値する存在でありたいと願わないとするなら、恋とは一体、何だろうか?
(本文より抜粋)
シェイクスピアの時代から、星の数ほど描かれてきた「恋愛小説」は、いくら描いても満たされることのない深淵なジャンルです。何度経験しても上達せず、何歳になっても振り回される、不確かで不定義な感情。『青空エール』の良い意味で何のひねりもない青春物語も、『マチネの終わりに』の拗らせまくった中年模様も、結局は同じものを描いているのだと思うと、なんだか不思議な感じもするのです。ハチにも見えたよ!甲子園の空!
290日目。ランチ時に外に出たら、頭上の高いところから、今年最初の蝉が鳴いておりました。日本人は蝉や鈴虫などの虫の音を、言語と同じ「左脳(言語脳)」で聞いていて、これらを「声」として認識しているのだと、ものの本で読んだことがあります。逆に西洋人は虫の声を、音楽と同じ「右脳(音楽脳)」で聞くので、ただの雑音としか捉えないのだそう。どちらが良い悪いの問題ではないのかもしれませんが、季節ごとに移ろう虫の音を、何か意味のある「言葉」として認識している日本人は、なんともロマンチックな民族だなあと思うのです。閑さや岩にしみ入る蝉の声(芭蕉)。
閑話休題。「Suchmos」。「サッチモズ」ではなく「サチモス」と発音します。2013年に神奈川で結成された6人編成のバンドで、オフィシャルサイトの文言をそのまま引用すると「ROCK、JAZZ、HIP HOPなどブラックミュージックにインスパイアされた」らしいのですが、彼らの音楽は、その全部でありつつ、そのどれにも当てはまらない、オリジナリティを兼ね備えております。なにはともあれ、まずは今年の1月にリリースしたEP『LOVE&VICE』からシングルカットされた『STAY TUNE』のPVをご覧ください。
超カッケー! ジャミロクワイをリスペクトした映像にもジンジンしますが、90年代に席巻したAcid Jazzの疾走感を保ちつつ、115日目に紹介したポストロックバンド「toe」や、214日目の「KIMONOS」のような、日本的な湿り気と潔さのあるグルーブ感が魅力です。演奏も超上手。特に5弦ベースでメロディアスかつ骨太に走りまくるベースラインに痺れます。
そして声。心地よい倍音をはらんだこの声の持ち主は、ボーカルのYONCE君。弱冠23歳でありながら、往年のカーティス・メイフィールドを彷彿とさせる、男の色気を感じさせます。ほとんどの楽曲の作詞もYONCE君が手がけているのだとか。最近いたるところでパワープレイ中の新曲『MINT』のPVもどうぞ。
「しゅー・はー・すー」や、「どうだい・きょうだい・はいかい・しないかい」など、長音符や韻を多用した、耳心地の良い言葉選びに、YONCE君のセンスの高さを感じます。『MINT』はすでにいろいろなメディアでランキング上位に上がってきており、今夏を代表するヒットチューンになるやもしれません。
冒頭の話に戻ると、日本人は虫の音だけでなく、雨の音や川の流れ、小鳥の鳴き声なども、「左脳(言語脳)」で捉えているのだそう。どんだけ左脳使ってんだよ!って話でもありますが、森羅万象が奏でる物音や鳴き声に耳を傾け、それを言葉や歌で表現しようとした結果が、短歌や俳句、能といった芸術に繋がっていったのでしょう。「ROCK、JAZZ、HIP HOPなどブラックミュージックにインスパイアされた」彼らの音楽に感じる「それだけではない」感は、実はその日本人特有の「脳癖」に起因しているのかも知れません。やがて死ぬけしきは見えず蝉の声(芭蕉)。
289日目。先週末、お台場の「日本科学未来館」で開催されている『Björk Digital ―音楽のVR・18日間の実験』に行ってまいりました。360度カメラで撮影したビョークさんの新曲ミュージックビデオを、VR(ヴァーチャルリアリティ)のヘッドセットをつけて体感するという新感覚なイベント。観覧者は50人ずつくらい、丸椅子だけが置かれた何もない部屋に通され、ゴーグルとヘッドフォンを渡されます。簡単な操作説明のあと、各人がヘッドセットをつけて、それぞれのタイミングでビョークさんの世界に入っていくのです。「逃げ場がない」という意味では、映画よりも閉塞的で、ジェットコースター並みに暴力的な体験を、控え室みたいな殺風景な部屋で経験するというシュールリアリズム。すぐ隣にいる人と同じ映像を見ているはずなのに、まったく何も共有できないという圧倒的な孤独感。短い時間でしたが、ちょっとしたドラッグ体験にも似た非日常感がございました。VR、恐るべし。それ以上に恐るべし、ビョーク。
さらにその前週、同じく「日本科学未来館」で、今回のイベントに合わせて来日したビョークさんが「DJをする」イベントがあるというんで、それにも参加してきました。
おおよそ3時間半ほどのプレイ中、最初の1時間は秋田音頭や沖縄民謡を延々と流し続けて観客をどよめかせておりましたが、中盤からはおそらくビョークさんが最近オキニな音楽を、思いつくまま流し続けるという奔放なDJスタイル。でもそれが、なにかしらの「塊り」になって聴こえてくるのは、鬼才たる所以なのでしょうか。ボクは曲が変わるたびに音楽認識アプリで検索をかけておったのですが、その中でも特に印象に残った数曲をご紹介しましょう。
ベネズエラ出身のトラックメーカー「アルカ(Arca)」。カニエ・ウェストの2013年のアルバム『イーザス(Yeezus)』に参加したことで注目を浴び、昨年リリースされたビョークさんの最新アルバム『ヴァルニキュラ(Vulnicura)』では、共同プロデューサーとして名を連ねている、弱冠26歳の超大型ルーキーです。「これ、ビョークの新作PVだよ?」って見せられたら、なんの疑いもなく頷いてしまいそうな映像美。背中のブツブツが超怖いです。
ロサンゼルスで2007年から活動している『OFWGKTA』というヒップホップグループのメンバーである「シド・ザ・キッド(Syd tha Kyd)」という女性シンガーが、2011年に別メンバーと結成した「The Internet」というバンド名義で、昨年リリースした楽曲。スモーキーかつ粘着性のあるビートに乗せて、「女性」が「女性の恋人」に向けて愛を囁くリリックが印象的です。
2013年にデビューしたアメリカのR&Bシンガーソングライター「ケレラ(Kelela)」が昨年発表した楽曲。この曲は違いますが、ケレラさんの作品にもプロデューサーとして前述のアルカ君が参加しております。脈絡がないように見えて、意外と「つながり」を意識した選曲だったのかも知れません。
69日目にも181日目にも紹介した「アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ(Antony & The Johnsons)」のアントニー・へガーティ君、もといアントーニー・へガーティさんが、「アノーニ(Anohni)」という新名義で今年リリースしたアルバム『Hopelessness』の収録曲。ビョークさんの2007年のアルバム『ヴォルタ(Volta)』にアントニーさんが客演で参加し、2010年のアントニーさんのアルバム『スワンライツ(Swanlights)』では、逆にビョークさんがデュエットで参加という、BFF的関係なお二人。イベントに来ていた多くの観客もそれを知ってか、この曲が一番盛り上がっていたような気がします。
ちなみにこの『Hopelessness』というアルバム。プロデューサーは、スコットランド出身のDJ、ハドソン・モホーク(Hudson Mohawke)氏と、「ブライアン・イーノの後継者」とも言われる、ニューヨーク出身のワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(Oneohtrix Point Never)。エレクトロニカの若き気鋭と呼ばれる二人を配陣し、今まではどちらかと言うとシンフォニックな悲しくも優しい音楽を作っていたアントニーさんが、今回はポリティカルかつ攻撃的な作品に挑戦しています。
例えば上の『4 Degrees』は地球温暖化をテーマにしていて、『この世界が煮えたぎるのを見たいわ!/気温があとたった摂氏4度上がるだけなの!』という破壊的なリリック。またアルバム1曲目の『Drone Bomb Me』は、ドローン戦闘機の爆撃被害にあったアフガニスタンの少女をテーマにしているし、その名も『Obama』という楽曲では、オバマ政権に対する痛烈な批判を歌詞にしています。
トランスジェンダーとして生まれた自分の孤独や苦悩を乗り越え、泣いてるばかりでも諦めてるばかりでもない人生を歩き始めたアントニーさんの「強さ」と「怒り」を感じる傑作です。おそらくグラミー賞を含めた来年の賞レースでは、この作品が席巻することになるでしょう。
ビョークさんの話をしていたつもりが、いつの間にかアントニーさんの紹介になってしまいましたが、それもこれも、ボクにとってはビョークさんが投げつけてくれた「塊り」の中の出来事なのです。アノーニ、恐るべし。それ以上に恐るべし、ビョーク。
288日目。例えがあまり良くないのですが、まだボクが20代の頃に、ある雑誌に素敵な連載コラムを見つけて、毎回楽しみに読んでいた時期がありました。文面からその著者が女性であることは推測できたのですが、思慮深くも鮮やかな印象を残すその筆致から、心の落ち着いた穏やかな女性が書かれていらっしゃるのだろうと、勝手に想像しておりました。その後、不思議な縁でその著者の方とお会いする機会があったのですが、実際は全く違い、良くも悪くも周りを振り回すエキセントリックなタイプの女性でした。向こうからしてみれば「アンタが勝手に想像してただけやろ!」って話なのですが、あまりのギャップにボクはショックを受けました。ボクはその時まで、作品と人格はほぼイコールなものだと信じていたのです。太宰や啄木のように、気に病む人は気を病んだ作品を作るし、ヘミングウェイやピカソのような男らしい作家は、得てして大味で豪快な作品を作る。でもそれは誤りでした。人間はもっと多面的で、思いがけない人の、思いがけないポケットに、思いがけない宝物が隠されているものなのです。
先日、六本木EXシアターでダミアン・ライス(Damien Rice)さんのライブを拝見してきました。以前の無人島でも、74日目でも紹介しましたが、ボクはこの人の歌声が大好きで、このブログの主旨をまるっきり無視して言うと、無人島に10枚しかCDを持っていけないとしたら、最低1枚はダミアンさんのCDを選ぶと思います。そのくらい好き。デビューから14年目にして待望の初来日公演ということで、ボクは一も二もなくライブ会場に向かいました。
アイルランド出身のダミアンさんの歌は、暗く内省的で果てしなくナイーブ。だからご本人もきっと、無口で厭世的なちょっと気難しいタイプの方なのだろうと、ボクはまた勝手にそう思い込んでいたのです。客席の明かりが落ち、ほとんど何も装飾のないガランとしたステージ上に現れたダミアンさんは、アコギとエフェクターのみとは思えない圧倒的な演奏を3曲続けた後、マイクに向かってこう言いました。
「中学生の頃、オナニーするたびに寄付するっていうルールを自分に課してたんだけど、寄付先からクリスマスカードをもらった時だけは複雑な気持ちになったよね」
ガラガラガラと何かが崩れていく音を聞きながら、ボクは例のコラムニストのことを思い出していました。思いがけない人の、思いがけないポケット。
「バーでいい女に会ったら、一度トイレに行って一発抜いてから席に戻って、それでもまだいい女だと思ったら、本当の恋だよね」(←MCで本当に言っていた)
ガラガラガラ。あとでネット検索したところ、ダミアンさんの下ネタはライブの定番らしく、至るところで披露しているようです。しかし、全くいやらしい感じがしないのは、話している本人がニコニコして楽しそうなのと、客席にいても伝わってくるそのアッケラカンとした人柄の妙なのでしょう。ダミアンさんの歌を聴き始めてから10年強、勝手に寡黙な吟遊詩人のイメージを固めておりましたが、ステージ上のご本人は、どちらかというと、凍てついた北海を漁場にする、酒と歌と女を愛する逞しきフィッシャーマンといった心意気の男性なのでした。
だからと言って「ガッカリ!」という話じゃなくて、今回は逆にその人柄を目の当たりにし、彼の歌自体も違って聴こえてくる面白さがありました。例えば14年にリリースしたアルバム『My Favourite Faded Fantasy』からのシングル『I Don’t Want To Change Your Mind』は、ニッチもサッチも行かなくなった男の感情の結露なのかと思っていましたが、この根っからの明るさを持つダミアンさんのこと、実は手放しで人を愛することの喜びを歌っているようにも聴こえてくるのです。
ステージでは、ワインをガブ飲みしてみたり、観客をどんどん舞台上にあげ、ファンに囲まれながら歌ったり、アンコール後に会場の外でバスキング(路上ライブ)を始めたりと、フレンドリーさを爆発させていたダミアンさん。もちろん歌や演奏も一流で、ボク的に今まで見た中でも、忘れ難さ屈指の素晴らしいライブでした。
もちろん、ダミアンさんのその明るさも、ほんの一面の面影で、ホテルに帰ればまた別の横顔なのかもしれません。それは冒頭のエキセントリックなコラムニストも然りです。人はわからないものだなあと思うのと同時に、自分はどうなのだろう?と考えます。まだ自分でも気づいていないポケットに、思いがけない何かが入っているのではないでしょうか? もうすぐ47歳。あってもなくてもホラーです。
287日目。先日『リリーのすべて』という映画を観てきました。1920年代のデンマークを舞台に、世界初の性適合手術を行った実在の女性とその奥様の、苦悩と献身の物語。若手実力派俳優、エディ・レッドメイン君が、スーツ姿のイケメンから、徐々に愛らしい女性になっていく、その巧みな演技だけでも一見の価値がある映画ですが、どちらかと言えばこの作品の主体は「奥様」の視点。最愛の夫がだんだんと女性になっていく姿を目の当たりにしながら、反発と同情、混乱と諦め、憎しみと愛しさの間を、うぉーさぉーする奥様の苦悩は、観客に「伴侶とは?」という命題を問いかけてきます。序盤の奔放でわがままな若妻から、後半すべてを飲みこんだ聖女の面持ちに変わるまでのプロセスを、見事に演じきった女優、アリシア・ヴィカンダーさんは、今作で本年度アカデミー賞で助演女優賞を獲得。エディ君も霞むほどの熱演なのでした。
閑話休題。青山文平著『つまをめとらば』という小説を読了いたしました。今年1月に発表された第154回直木賞受賞作です。江戸時代後期の武家社会を舞台に、これも「伴侶とは?」をテーマにした時代小説。
六つの物語を編んだ短編集ですが、どれも身近にいる伴侶なり恋人なりの、思いがけない素顔を垣間見た主人公たちの、ためらいと心の移ろいを描いた小話です。誰もが羨む美女と結婚したものの、その妻の裏切りを知り、壊れていく夫の顛末。亡くなった妻が、自分に内緒で「仕事」をしていたことを知った夫の困惑。我が子のための乳が出ない新妻が、乳母と夫の関係を悋気する焦燥。
一遍いっぺんは短いながらも、凝った場面展開や巧みな時間の構成で、まるで質の良い短編映画を観た後のような読了感を味わわせてくれます。青山文平氏の作品を拝読するのは初めてでしたが、言い尽くせないモヤモヤや、形にできない感情の機微を、湿り気のない鮮やかさで描き切るその筆致は、日本の作家というよりも、むしろ海外の文豪の短編を彷彿とさせるスタイリッシュさを感じました。
他人でもなく血縁でもない「伴侶」という不可思議な存在。相手に何を求めるのかは人それぞれですが、『リリーのすべて』にも『つまをめとらば』にも共通するのは、相手によって気付かされたのは、自分自身の「正体」だったという事実。「伴侶」は鏡であり、自分が求めるものは結局自分から差し出すしかないという「鏡の法則」の最たる例なのかもしれません。チョンガーのボクからしてみればホラーに近い話ですが、やっぱり少しうらやましい気もするのです。
286日目。週末、さいたまスーパーアリーナで「マドンナ」さんのコンサートを拝見させていただきました。1982年に『Burning Up』で世の男性のド肝をはじめとしたあらゆるモノをヌキまくった現代のセックス・シンボルも、御年57歳。昨年見たマライアさんのトラウマもあり、および腰半分、怖いものみたさ半分だったのですが、いやはやさすがはマドンナさん。サーカス団かと見紛う曲芸軽業ダンサーを1ダースほど引き連れて現れたそのお姿は、スタイルもアティチュードも見事にご健在。約2時間のステージを、ほぼ(多分半分くらい)生歌でこなし、ダンサーと絡みつつ早着替えしてみたり、装置に乗ってあちこち移動してみたり、観客にフレンドリーに話しかけてみたりと、まったく飽きさせない演出で、開演2時間遅れなどなんのその、これぞスーパースター!なステージなのでした。
ニューアルバムからの楽曲ばかりかと思いきや、『Burning Up』を歌い、『True Blue』を歌い、『Like A Virgin』を歌いと、四十路のオジさんには胸に迫るセットリストだったのですが、その日ステージ中盤で「毎回1曲だけ違う曲をやってるのよ」というMCの後、歌ってくれたのが2000年に発表したアルバム『MUSIC』からのシングル曲『Don’t Tell Me』。数あるマドンナさんの楽曲の中でも、ボクはこの曲が一番好き。懐かしくもカッコブーなPVがこちらです。
この曲はもともと、「ジョー・ヘンリー(Joe Henry)」というアメリカのシンガーソングライターが作った『Stop』という楽曲がベースになっています。ジョーさんの奥さんは、なんとマドンナさんの実妹で、つまり彼はマドンナさんの義弟にあたります。
ジョーさんが作った『Stop』という楽曲を聴いた奥さん(マドンナ妹)が「この曲、姉さんに似合うから、送ってあげてよ」と言ったのだそう。でもジョーさんは「そうかあ?」と放っておいたのを、奥さんが勝手にマドンナ姉さんに送ったところ、アレンジを大幅に変えてレコーディングされたとのこと。その原曲がこちらです。
歌詞はほぼ同じですが、ジョーさんが「そうかあ?」と思ったのも頷けるほど、タンゴ調の渋チンなこの楽曲を、「これは姉さんに合う!」とピンと来たマドンナ妹の感性に驚きます。結果、この曲の成功を機に、ジョーさんとマドンナさんはその後『Jump』『Falling Free』などで共作するパートナーとなります。
これだけ書くとまるで、マドンナ姉さんの七光りで注目されたソングライターみたいに聞こえてしまいますが、ジョーさんは元々ルーツ・ミュージック(アメリカ南部の民族音楽)の音楽家として、エイミー・マン(Aimee Mann)やエルヴィス・コステロ(Elvis Costello)、ボニー・レイット(Bonnie Raitt)らのプロデューサーとして有名だったお方。ご自身でも13枚のアルバムを出していらっしゃって、来日公演の経験もある実力派ミュージシャンです。
ボクは彼が2007年に発表した『Civilians』というアルバムがとても好きで、今日はマドンナさんのレビューかと見せかけて、実はジョーさんの紹介です。特に『Civilians』のラストの収められた『God Only Knows』という楽曲は秀逸。
暗闇が地に落ちて
一日がよろめくように去っていく
静かな終末が来ている
いい頃合いなのかも知れない
最良を守り続ける心を
僕たちは失くしてしまった
時が憤怒の表情で
暗い目を過去に向ける
何を慈悲と呼ぶのだろう
許されないことばかり繰り返している
まるで力と意志だけが正しさのように
そのいずれかが自由をもたらすかのように
恋人たちが笑いながら行き過ぎる
手を振りながら通りに消えてゆく
あんな時が僕らにもあったかな?
あんなに甘いことはなかったね
でも世界は美しい
退く時はいつも
最悪の時でも美しい
ここから抜け出せるのであれば
私たちが出来うることは神だけが知る
神が許す以上でも以下でもなく
私たちが良しとすることは神だけが知る
そして術を持たない私たちを神だけが知る
でも僕は愛をこめて君の光になろう
そして祈ろう それだけで十分だと
でも僕は愛をこめて君の光になろうとしてきた
これからも祈ろう それだけで十分だと
ボクの拙訳では伝わりませんが、たぶん宗教と死生観をテーマにしたリリックなのでしょう。シンプルなピアノとウッドベースのリフレインが、繰り返される「祈り」のようでとても素敵です。
たびたび宗教的なテーマを楽曲のモチーフにし、カトリック教会とやんや揉めているマドンナさんは、つまり信仰心の篤い方なのでしょう。だからこそ、この義弟の作る楽曲は彼女の琴線に触れるのだろうし、血は繋がらなくとも、そしてその表現方法は違っても、実はなかなかの「似た者姉弟」なのかもしれません。
285日目。時々不思議に思うのですが、人はなぜ「いつか自分も死ぬ」と分かっているのに、平気でズルしたり、怠けたり、嫌な仕事をダラダラ続けたり、他人を傷つけたり、嘘をついたりしてしまうのでしょう? もし自分が「明日死ぬ」と分かっていたら、絶対にしないであろう怠惰で自分勝手で不誠実なことを、明日をも知れない我が身だと知りながら、なぜボクは日々続けてしまうのだろう? 勝手な推論ですが、人間はそういうことを常に考え続けられないように作られているのかも知れません。だから、親しい人の死や、ニュースで報道される多くの訃報は、故人を悼むということ以上に、いつ終わるかわからない人生を精一杯生きろという、「メメント・モリ」なメッセージとして、真摯に受け止めなければならない、大切な機会ではないか思うのです。
人は行き、人は去る
でも君のダイアモンドは
特別だったと思う
君は行ってしまう
誰にも気づかれないけど
僕にとって君は特別だったんだ
ライオンのように走り
女神のように歩き
鷲のように弧を描く
完璧な紺碧を
なぜすべては過ぎ去るのか
なぜ速度を落とさないのか
この世の終わりのような日でも
僕はまだ君を手放せないでいる
寒くてどうしようもない日にも
君が残してくれた灯りがあるよ
暗闇にひとり残された時にも
君が教えてくれた気持ちがあるよ
血を分けた兄弟みたいに
支え合う姉妹みたいに
あの夜に誓ったよね
僕らは死ぬまで友達だと
風向きが変わり
水の流れが変わり
ひとひらの雪のような人生
君を恋しく思うだろうね
わかってる
寒くてどうしようもない日にも
渦巻く水の流れの中で
君がそばにいてくれるのを感じる
どんなふうにそこにいてくれるのかも
どこにいても君がそばにいる
君が教えてくれた気持ちがあるよ
今夜は、今週若くしてご他界されたボクの友人・つよぽんに、この歌を捧げます。交わした言葉は少ないですが、彼の破顔にボクはいつも励まされていました。そのユーモラスなフォルムと、鷲の描く弧のように丸く温かい笑顔をボクは忘れません。I’m gonna miss you, I know. また会おうね。R.I.P.
284日目。その時には特に意味があると思わなかった出来事でも、少し時間を置いて振り返ると、「ああ、アレはそういうことだったのね!」などと腑に落ちる場合がございます。例えばボクは25歳の時になんとなく思い立って、その時勤めていた会社を辞め、衝動的にフラフラ外国を放浪してみたりしたのですが、今から思えばあの時の「なんとなく」は、なかなかどうして、自分の人生に必要なタスクを、最適なタイミングで実行していたんだなぁと、この年齢になって分かるのです。不可抗力のような誰かとの出会いやお別れも、会うべき時に会うべき人々と出会い、結局は自分で取捨選択してきたのだと、後になって気づいたり。「偶然なんてないんだよ」という運命論ではなく、すべての出来事は、少し後になってから、その姿形があぶり出しのように現れてくるものなのだと、最近思うのです。
先月アデル姐さんがリリースされた4年ぶりのアルバム『25』が、全世界でバカ売れだそうです。アメリカでは発売初週だけで300万ユニット(CD販売とデジタルダウンロード数の合算値)を記録し、これはかつてジャスティン・ティンバレークが所属した「イン・シンク」が2000年に記録した242万を大きく上回るのだとか。イン・シンク! 懐かしいな。
11月20日にリリースされてから本日まで、わずか2週間弱しか経っていないワケですが、すでに先行シングル『Hello』のカバーがワンサカ出回っております。その中でもボクが秀逸だと思ったのはコレ。
アメリカはユタ州出身の「Foreign Figures」というバンドのカバー。この歌のもつ激しさは、確かにハードロックにうまくハマりますな。
イギリスはケンブリッジのシンガーソングライター「Alice Olivia」さんのカバー。なんつうか本家の歌唱よりも、「業」のようなものが際立って聴こえます。ちょっと怖い。でもゾクゾクします。
『Hello』に続き、アルバム発売直前にドロップされたのが『When We Were Young』。ボク的には 『Hello』よりもこちらのほうがハマりました。スゲー好き。こちらのカバーも見つけたので貼っておきます。
ニューヨークで活動するアカペラグループ『Apollo Link』のカバー。後年「アデルの最高傑作」と呼ばれてもおかしくないほどの名曲ですから、あえて楽器でアレンジせず、アカペラでカバーするのは正解かも知れません。決して緻密なハーモニーではありませんが、徐々に熱量が高くなるエモーショナルなコーラスがとてもステキです。
この光の中で あなたの写真を撮らせてね
もしかしたらこれが 最後かもしれないから
何も知らなかったあの頃のまま 写れるかもしれないのは
年をとることが悲しくて 落ち着かない気持ちになった
あの頃が映画のよう あの頃が歌のよう
(CD歌詞対訳より)
アルバムタイトルの『25』とは「25歳の時の自分」という意味で、これまでのアデル姐さんのアルバムはすべて、数年前の自分の年齢を冠しています。20歳の時に『19』、23歳の時に『21』、そして今年27歳で『25』。彼女は常に、いまその時の自分ではなく、数年前の自分を俯瞰しながら、楽曲を紡いでいらっしゃるのです。
20歳でデビューし、23歳でグラミー賞を総ナメし、24歳で出産を経験。のほほんと生きてきたボクとは違い、ジェットコースターのような人生を歩んでいる彼女にとっては、2年前の出来事も「映画のよう」に映るのかもしれません。かのエイミー・ワインハウスのように生き急ぐことなく、5年後10年後も、その卓越した俯瞰力と表現力で、凡人の描けない世界をあぶり出してほしいと思うのです。
283日目。アメリカ全世帯の4分の1が利用しているというウワサの『Netflix』が、先月日本でもオープンしました。サービス形態は同じサブスクリプション型動画配信サービス『Hulu』とほぼ同じですが、Netflixはオリジナルコンテンツが多く、13年にエミー賞を獲得した『ハウス・オブ・カード』もNetflixの制作だとか。日本ではフジテレビと提携し(ちなみにHuluは日テレと提携)、『テラスハウス』の新シーズンなどがすでにスタートしております。流行りモン好きのボクも早速登録したのですが、おかげさまで先週末にどっぷりハマってしまったのが『Sense8』というドラマ。これもNetflixオリジナルで、『マトリックス』を制作したウォシャウスキー姉弟が監督・脚本を手掛けている、なんとも新感覚なドラマなのです。
メイン登場人物は8人いて、それぞれナイロビ、ソウル、サンフランシスコ、ムンバイ、レイキャビク、ベルリン、メキシコシティ、シカゴと、別々の都市で関係のない人生を生きています。ところが、ある出来事をきっかけに、離れた場所にいながらお互いの姿が見えたり、会話ができる不思議な能力を共有することになります。
好きでもない男との結婚に悩むインドの女の子の逡巡。ゲイであることを隠しているメキシコの人気俳優の屈託。自分を虐げてきた家族のために生きる韓国のキャリアウーマンの葛藤。ナイロビで生きる貧しいバス運転手の苦悩。最愛の恋人とサンフランシスコに暮らすトランスジェンダーの決意。それぞれの日常がパラレルで描かれ、やがて交錯していきます。
登場人物たちはやがて、自分とまったく違う世界に生きる他人の悩みや孤独に共感し「救済」したいと思う欲求に駆られていきます。もちろんドラマですから、謎の組織に追われたり、手に汗握るカーチェイスが繰り広げられたりと、ハラハラドキドキなシーンも満載ですが、このドラマの通底には、自分にはなんの見返りもなくても、困っている誰かを助けたいと思う人間のベターハーフな本能が、テーマとしてある気がします。
挿入曲も秀逸で、Fatboy Slim feat. Macy Grayの『Demons』や、Antony & The Johnsonsの『Knockin' On Heaven's Door』などが実に効果的に使われておりましたが、ファーストシーズンのエンディングで使用されたのは、2005年にリリースされたSigur Rósのアルバム『Takk…』に収録された『Sæglópur』。ラストシーンでは、船で旅立つ主人公たちの姿と、遭難した船乗りの帰還を歌ったこの楽曲が見事にマッチしていました。すでにセカンドシーズンの制作も正式に発表されているこのドラマ。続きが楽しみです。
ということで、Apple Musicに引き続き、Netflixにもいい感じに手のひらでグルグル感のあるここ最近。でも、地上波でドラマを観ているときに感じるCMの邪魔くささ感もなく、レンタルショップにDVDを借り行ったら観たいエピソードのディスクが貸し出し中だったときのガッカリ感もなく、観たいときに観たいだけ、どんなデバイスでも観れちゃうこのサービスに慣れると、もう元には戻れない気がします。時代はこうやって駆け足で変わっていくのでしょう。手のひらでグルグルされてるうちが花、こぼれて置き去りにされないように、おじさんは必死についていきたいと思います。
282日目。7月1日よりスタートした『Apple Music』。月額980円で3000万曲が聴き放題というこのサービス、みなさまはご利用になっていらっしゃいますでしょうか? ボクはまんまとアップルの術中にハマり、すっかりドップリ首まで浸かっております。なにがスゲーって「ステーション」機能がスゲーっす。今までは、自分が持っている(iTunesに入れ込んだ)曲の中で、似たような雰囲気の曲を探してくれる「Genius」という機能があったのですが、「ステーション」はそれを3000万曲の中から探してきてくれるのです。自分の好きな曲を1曲選んで「ステーション」ボタンをポチッとするだけで、聴いたこともなかった異国のミュージシャンが演奏している、いかにもボクが好きそうなタッチの曲が延々とフル尺で再生されます。さらにその中でも「これは良い!」と思った曲に星マークをつけておくと、その情報を「For You」というタブに蓄積し、まるで「ご主人様のお好みの曲を集めておきました」と言わんばかりのプレイリストを用意しておいてくれる気の回しっぷり。ちょっと気味が悪いくらい便利なのです。
例えば280日目に紹介した、最近ボクがイチオシのJack Garret君の『Weatherd』から「ステーション」を開始します。おさらいでもう一度YouTubeをつけておきますね。
すると「ステーション」はこの『Weatherd』を起点に、ボクの知らない「SG Lewis」というミュージシャンの楽曲に連れて行ってくれました。ルイス君はイギリス・リバプールで活動中の若干20歳。今月リリースしたばかりの『Shivers』というこの楽曲は、波のように引いては寄せるダウンビートに、ソウルフルな乾いたボーカルが被り、『震え』というタイトル通り、体を内側からゾワゾワとさせてくれます。
さらに『Shivers』を起点に「ステーション」していくと、『Shivers』でボーカルを務めたマンチェスター出身のシンガーソングライター「JP Cooper」君がソロで発表した『Closer』という楽曲に出会いました。内省的で乾いた印象の『Shivers』とは違い、大きな愛をテーマにしたこの佳曲では、柔らかく情熱的な歌声を聞かせてくれます。とても良い声です。
さらに旅を続けると、次はイギリス北西部シルバーデール出身の2人組ユニット「Aquilo」の『I Gave It All』という駅に到着。秋雨の降る海辺の駅のホームに、ひとりぼっちで佇んでいるような気持ちになります。ボク的に今日紹介した中では「Aquilo」が一番ツボで、結局彼らのアルバムを全部購入してしまいました。どれも素晴らしいのです。
毎月定額払ってフル尺で聴けるってのに、長年身についた所有欲に煽られてしまい、「ステーション」で聴かされた曲を「iTunes Store」から別途購入してしまうという本末転倒のテイタラク。まさにアップルの手のひらの上でグルングルンに転がされておる感じです。Apple Music。ホント気味が悪いくらい面白いのです。
281日目。子供の頃と成長した後とで、性格が全然違ちゃった!なんていう人は意外と多いのではないかと思うのですが、かくいうボクも幼少時は、人前で歌ったり踊ったりするのが大好きな、ナチュラルボーン・エンターテナーだったらしいです。今ではそんな片鱗(酔っ払った時以外は)まったくないワケですが、両親や親戚の話を聞くとすごい社交性のある子供だったとのこと。曰く、頼まれもしないのにみんなの前でモノマネ(ネタは欧陽菲菲か加トちゃんだったそう)をしていたとか、電車の中で知らない人と喋ってたとか、幼稚園で男女構わずにキスしまくってたとか、それって社交性?って感じのエピソードがボロボロでてきます。そして一番の驚きは、本人はまったくソレを覚えてないし、今では人前でモノマネなんて考えただけでケツがモゾモゾしちゃうような、真逆の大人に育ってしまったこと。人って不思議。
西加奈子氏著の長編小説『サラバ!』を読了いたしました。昨年(2014年)下期の「直木賞」受賞作かつ、本年度「本屋大賞」第2位とのことで、本屋で平積みされているのを何度も目にしていたのですが、上下巻で700ページを超える大作とのことで、ちょっと手を出しかねておったのです。ところが友人に薦められて遅まきながら読み始めてみると、まるでゴクゴク水を飲むような感覚で、スラスラとページが進み、あれよあれよと読み終えてしまいました。
物語は主人公の「歩(あゆむ)」の誕生(1977年)から、37歳の現在(2014年)になるまでの半生を、歩の一人称で綴った大河ドラマです。寡黙で我慢強いが存在が地味な父、「親」や「妻」である前に美しい「女」であることを捨てようとしない母、自意識過剰かつ破壊的な姉。そんな家族の中で、空気を読むことばかりに長け、中庸であることをモットーとして育つ歩。舞台は父親の海外赴任によって、イランから日本、そしてエジプトへと変遷します。
上巻では、少年時代の歩の目を通してみた、奇天烈家族のやりとりが面白おかしく描かれておりますが、下巻からは、青年になり、親元を離れて暮らしながらも、家族の呪縛から逃れられずに、七転八倒する歩の苦悩が物語の中心となっていきます。
家族とは? 性とは? 友情とは? 職業とは? 信仰とは? 人生とは? 悩みもがきながら歩は、自分は決して「中庸」でも「まとも」でもなかったのだと気づいていきます。誰よりもクールで常識的でノーマルだと思っていたのに、実は一番ダサくて自意識過剰でアブノーマルだった自分。上巻のネガのような下巻の展開は、すっかり主人公に感情移入していた読み手にとって驚きの騙し絵です。
しかしそれは歩が変わってしまったのではなく、変わらなすぎたことに起因しています。自分の道を極めてやがて出家を選ぶ父。「女」としての幸せを追い求めていく母。波乱万丈の末に自分の居場所を見つける姉。時を経るにつれそれぞれが何かを手にしていくのに比べ、傍観者を気取っていた歩だけが何も得られず取り残されていく。
「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ」
姉の言葉に背中を押され、大人になった歩は少年時代の親友に会いに旅立ちます。エンディングは色々な解釈ができるのですが、この小説自体が壮大なラブストーリーだとすれば、切ないながらもハッピーエンドなのでしょう。
直木賞の講評で、審査員の浅田次郎氏が「言葉を自在に振り回すことのできる才能のおかげで少しも退屈しなかった」と述べておられましたが、まさに職人芸的なストーリーテリングで、まるで大ネタの落語を聴いていたような、不思議な読了感のある小説です。
子供の頃の自分と、今の自分。変わったところはたくさんあるけれど、それは「生まれ変わった」のではなく、幼生と成体で姿形が違うカエルのように、同じ血肉を持ちながら、長い季節を経て自ら「変えてきた」はず。それは『サラバ!』の登場人物ほど波乱万丈ではないにしろ、知らず知らずにボクがなにかを求め、なにかを紡いだ物語の結果なのかもしれません。無類の社交性(?)と引き換えに、一体なにを手にしてきたのかはサッパリわかりませんが、まだまだ未完成だと自認しているということは、まだまだ変わっていく余地があるということでしょうか。そうだと信じたいものです。人って不思議。